●●E.ハワードって?●●
【生い立ち】
エベネッツァ=ハワード(Ebenezer=Howard)は1850年、ロンドンの小さな小売商の息子として生まれた。15歳で店員になり、21歳の時に他の仕事に移った。このときアメリカにわたり、ハワードは農民であった叔父の影響を受け、その土地に定住するつもりであったが、彼は気質的に農民ではなかったので、失敗に終わり、その後シカゴに行き、再び事務所勤めに職を得た。
1876年にイングランドに帰り、議会の公認の記録係に加わった。 ロンドンとアメリカのあいだを往復(ここには書いてないが)したことと、記録係のときに得た経験とかれの仕事関係は、よい背景となる知識を与えたのである。個人経営を試みたが失敗に終わり、結局記録係と他の同種の仕事のために働くことに落ち着いた。ハワードの生活は困難であり収入は少なかった。かれは自分の経済的繁栄には重大な関心をもたなかったが、自分が始めた機械的発明と、彼が始め、その為に有名になった運動とのあいだに彼の関心は分割された。
ハワードの発明は、その開発にかかった費用を考えると、金銭的には彼に与えるものが少なかった。しかし、発明は彼の生涯の大きな部分であり、ほとんどといってよいが、かれは小さな仕事場をどこかにもっており、その中では、機械学が彼の考えのうえに作用していた。これらの思いつきを一つに捉えられると、その営利的見通しについては、友人の忠告を全て無視して、それを押し通した。この中にかれの性格への一つの手掛かりがある。
1879年、ハワードはナニツンにある、田舎人相手の宿屋の主人の娘エリザ・アン・ビルズと結婚した。この婦人はすぐれた人格で、高い教養と趣味と田舎に深い愛情を持っていた。この夫婦は3人の娘と一人の息子と九人の孫を得た。経済的にはいつも緊迫してはいたが、家庭生活は一つに結びついた幸福なものであった。ハワード夫人はレッチワースの建設がちょうど始まった1904年に死去した。しかし彼女の補完的な関心と賢明な忠言は、ハワードがその理念を発展させるにあたり、またかれの著作に非常な助けとなった。その出版と彼女の死のあいだの短い期間ではあったが−それほどの報告にも全ていわれていることではあるが−、彼女は彼に次いで、彼の提案のもっとも効果的な宣伝者であった。1905年にハワードからの手向けとして、ハワード夫人記念ホールが建てられた。
【ハワードの思想】
ハワードの読書の範囲は広くはなかった。しかし、自分の関心に関連したなにか流動性のあるものに対しては鋭い眼をもっていた。
ハワードに大きな影響を与えたのはベラミーの『顧みれば』であった。彼は1888年この本のアメリカ版に熱中し、ついにイングランドにおける出版に尽力するにいたったのであるが。懐疑的な批判的な研究者にとって、その本は非常に機械的論的の政治的には未熟のユートピアに見えたのだが、ハワードは、その本は勃興(ぼっこう)するイギリスの労働階級運動を鼓舞するうえでは、まわりが思っている以上に大きな役割をもっていると感じたのだ。
そこにはプロレタリアの憤り(いきどおり)も階級の悲痛もなく、都市化反対・工業化反対あるいは土地に帰れの、過去に対するあこがれの痕跡(こんせき)はなかったのだ。
この書物の影響によりハワードは『社会主義者のコミュニティ』のユートピア構想を描こうとした。その理想都市では、なによりもまず各産業は(農業を含めて)集団的に運営され、町と共同する村落地域の帯をもつことになっていた。しかし、自身の体験から公営農業は難しいと判断し、逆転の発想によりすべての産業を公有地の上におかれる私企業として考えるのにいたったのである。それが『田園都市』構想の支えていくのであった。ハワードは政治理論家でも夢想家でもなく、発明家であったのだともいえる。
【ハワードの生涯】
ハワードは1898年に「Tomorrow」を出版、1902年に改訂版として「Garden
City of Tomorrow」を発行した(詳しくは田園都市詳細参照)。Tomorrow出版以来、ハワードは田園都市の実現にむけて精力的に活動をしていた。1905年にレッチワースに行き、ここに住むようになり、ずっと田園都市会社の重役であった。彼は1921年にウェルウィンに移り住み、1928年に死ぬまでそこにいたのである。
国際住宅・都市計画協会の総裁として、彼は全世界に知られ、尊敬されるようになった。1927年にはナイト爵になったとされる。ハワードは1907年に再婚し、その妻は1941年まで生きたという。
彼は背の高さは中くらいで、頑丈な体格で、いつも同じような当たり前の格好をしていたという。しかし、明るく生き生きとした顔色とワシに似た横顔と、美しい力強い声をもっていたという。ハワードは子供たちに好かれ、なによりも説得力を持ち合わせていた男だったとされている。それが田園都市成功への鍵だったのかもしれない。
【ハワードが残したモノ】
ハワードの記念物は、レッチワースでは「ハワード公園」内の池として存在し、ウェルウィンでは中央街路「ハワードゲート」内の記念碑として存在している。ハワード記念講演は毎年レッチワースで行われているらしい。
ハワードの唱えた田園都市構想を実現するため、1904年以来、フランス・ドイツ・イタリア・ベルギー・ポーランド・チェコスロバキア・スペイン・ロシア・アメリカ各国において関連協会が設立された。
ハワードの残した偉大な功績は形としてだけではなく、それ以降の都市計画、そして我々の住む町々の都市計画思想にもいかされているのだ。
最近、彼の偉大なる思想を再確認しようという動きが盛んになってきているようだ。それは、ハワード生誕100周年だからという理由だけではなく、今、我々が抱えている都市問題に対する回答を彼が導いてくれてるからなのかもしれない。
編:tkiyoto