“街の定義” By Will-Wright


ウィル・ライト 著 多摩豊 訳,ウィル・ライトが明かすシムシティーのすべて,角川書店,1991

街の定義
 オークランドとサンフランシスコは別の街か
 街って何だろう? 毎日ごく普通に使っているこの“街”という言葉、よくよく考えてみると結構難しいものかもしれない。

 例えば、僕が住んでいるところはバークレーという大学街だけれど、この街はオークランド市の一部ってことになってる。ところが、このオークランドは、湾を挟んだ向こう側のサンフランシスコとあわせて″ベイ・エリア″って呼ばれるケースも多い。1989年のワールドシリーズのことを覚えている人もいると思うけれど、対戦したのはサンフランシスコ・ジャイアンツとオークランド・アスレチックスだった。僕らオークランドに住む住民にとってはアスレチックスが地元チームなんだけど、アメリカの他の都市に住んでる人から見ると、サンフランシスコのチーム同士が戦っているように見える。さぁそうなると、サンフランシスコとオークランドは別の街なんだろうか? それともあわせて一つの大都市って考えたほうがいいんだろうか?

 教科書なんかには、きっと街の定義はこういうふうに書いてあるんじゃないだろうか。
 「さまざまなレベルでいろいろな活動を行うために人々が集まる場所。例えば昔なら、農産物を持ちよって商売などを行なうことができる場所」

 街というと、どうしても建物とか道路っていう部分に目がいくことが多い。でも、街というのはそういった構造のことを指すのではなくて、その中にある社会的な組織全体のことを指すんじゃないだろうか? 建物があった場合、それは誰かの手によって建てられたわけだし、そこに住んでる人がいれば、当然その人は食べるものが必要だし、食べ物を手に入れるためにはその人は何か仕事をしなければならない。街はそこに住む人々の必要とするものを供給し、人々はそれによってより高いレベルでいろいろな活動を行なうことになる。

 別に街に住まなくても、人は生きてくことはできる。だけど、そういう生活だと他人と関わることはすごく少なくなる。ところが、街に住めば、他人との関わりあいはとっても多くなる。仕事の形態もいろいろなものが出てくるし、それ以外の活動も活発になる。街っていうのは、こういったさまざまなもの、言ってみれば文化の中心になる組織体のことなんだと思うわけだ。  人が集まってくれば、大きな教会も必要になるだろうし、会社の事務所だって大きくなる。人口が増えれば、スタジアムや劇場、オペラ・ハウスなんて娯楽施設も必要になる。こういったものは、全部人々の活動の結果として必要になってくるんだけれど、そういった他人との関わりあい、社会活動を生みだすのは街そのものなんだ。

 もちろん、街は単体ではやってゆけない。他の街と、街同士がいろいろな関わりあいを持っていかなければならない。これはこれでまた一つの大きな組識を形成することになる。

 混乱するかもしれないので、例を出して考えてみよう。さっきも書いたオークランドとサンフランシスコの例だ。政治的な区分けからすると、オークランドとサンフランシスコは別々の二つの街ってことになる。なにしろ、どっちの街にもちゃんと一人ずつ市長がいるんだから。
 政治的な区分けっていうのは、たとえば税金のことなんかを考えてもらえばいいと思う。オークランドの道路を作るためには、そこに住んでいる人から集めた税金を使わなければならない。この“そこに住んでる”ってのをはっきり決めるのが政治的な区分けなんだ。街の法律、行政、こういったことを決めるためにはどこかで境界線を引かなければならない。これが政治的な区分けってことになる。政治の区分けが違うってことは、サンフランシスコとオークランドではいろいろな制度が違うってことだ。例えば道路の制限速度だっていろいろな違いがある。

 だけど、そこに住んでいる人々の日常的生活感覚からすると、ベイ・エリアは全体で一つの大きなシステムってことになる。オークランドに住んでる人がサンフランシスコに毎日通動して仕事する。近くのお店で買物をすることもあれば、わざわざ湾を渡ってチャイナタウンヘ行くこともある。サンフランシスコに住んでる人がオークランド・アスレチックスの試合を見に来ることもあるし、バークレーのテニス・クラブでテニスをすることもある。実際の生活では、僕らは二つの街を往き来してるなんて考えてない。ベイ・エリアっていう大きな都市に住んでるってわけだ。

 街とは、こういった人々の関わりあいすべてを含めた活動全体のことを指すんだと思う。

街のスケールの意味
 人口1000人の街に2000人収容の劇場は必要か
 さて、この街という代物は、ちょっと面白い性格を持っている。

 さっきも書いたように、街というのはそこに住む人々の相互の関わりあいの活動に密接な関係を持っている。だから、街に住む人の数が増えれば、当然活動もより活発になる。ところが、街の面白いところは、たとえば人口が二倍になると活動が単純に二倍になるだけじゃなくって、活動の質も高度なものになったり、それまでは存在していなかったものが生まれてきたりするところなんだ。

 街の人口が少ないと、そこに住んでる人の活動というのはそんなにバラエティーに富んだものにはならない。みんな同じ店で買物をし、同じ教会に通う。ところが、街の人口が増えてくると、住んでいる人はいろんな選択ができるようになってくる。例えば、買物に行くべき店の数が増えるとか、子供を通わせる学校が選べるようになるわけだ。その上、こういった選択ができるようになると、それぞれの活動は対象とする人向けに特殊化されるようになってくる。食料品だけを扱うお店もできれば、大きなスーパーも登場する。選択の幅はより大きくなるわけだ。
 そしてもっと街が大きくなると、今度は小さな街では成り立たなかったような設備も生まれてくる。例えば劇場やスタジアムなどの娯楽施設は、ある程度街の人口がないとやってゆけない。街が大きくなればなるほど選択の幅は増えて、住民それぞれの好みにあうように特殊化も細かくなって行く。これが活動が高度になるってことの意味だ。

 これは街の経済の規模に関係している。人口がある程度の量を越えないと、どんなに頑張っても劇場を満員にすることはできない。例えば人口1000人の街では、2000人収容できる劇場を持っていても効率はよくない。だから誰もそんなものを作ったりはしない。ところが、人口10000人になると、2000人収容の劇場でもやって行けるようになるかもしれない。こうして、人口が増えて経済の規模が大きくなれば、小さい街には存在しないものも登場してくるようになる。

 活動の質が高くなるっていうのは、自分の好みにあった活動を行なえるチャンスが増えるってことだから、住んでる人にとってはいいことになる。だから、街は小さいよりは大きい方がいいってことになってくるんだ。

いい街、悪い街とは?
 もし、毎日通勤する必要があったらバークレーに対するイメージも違ってくるだろう
 では“いい街”とはどんな街だろうか?

 まず最初に断っておきたいのだけれど、僕はシムシティーをプレイする皆さんに「これがいい街だ!」なんていう押し付けは絶対にしたくない。いいとか悪いという判断は人によって変わってくるもので、絶対的な基準があるわけじゃない。これから書くのは“僕が考えるいい街とは何か”ということで、決してそれがすべての基準だなんて思わないで欲しい。

 では僕にとってのいい街とはどういう街か。実はそれは僕が好きな街っていうのと同じことなんだと思っている。どういう街が好きか、この判断は人によって異なってくる。おまけに、たとえ同じ街だったとしても、そこでどういう体験をしたかによって、街に対するイメージは違ってくる。

 たとえば、僕は今住んでいるバークレーの街が好きだ。というのは、この街にはとってもいい本屋がたくさんあるからなんだ。本屋さんを何軒もまわり、いろいろな本を眺める。そしてその近くにはレストランもたくさんあるし、いろいろな買物もできる。とっても便利だ。

 ところが、バークレーに住んでる多くの人々は、サンフランシスコまで行くのに車が渋滞することで文句を言っている。たまたま僕は家で仕事をしていて、サンフランシスコまで通勤する必要がないから交通渋滞にわずらわされなくてすむけれど、もし毎日通勤する必要があったらバークレーに対するイメージも違ってくることだろう。

 さっきも書いたように、たとえ同じ街だったとしても、そこに住む人それぞれによって街に対するイメージは異なってくる。これはその人のライフ・スタイルと街の機能がうまくかみあっているかどうかによって変わってくるわけだ。

 ただし、これはあくまでも個人にとっての街の話で、街を運営する立場の人間になるとまた見方は変わってくる。
 街を運営する立場になると、自分の個人的好き嫌いいで街作りをするわけにはいかなくなる。考えなきゃいけないのは、住んでいる人々の多くにとっていい街とは何なのかということで、一人一人を対象とするのではなく、大勢の人々の要求を考えていかなければならなくなるわけだ。

 さて、“いい街”ということを考えるからには、“悪い”ほうも考えなければならない。
 最初に書いたように、街というのはそこに住む人々の活動すべてを指している。この活動をなんらかの形で妨げるもの、それが問題だ。住んでいる人々にとって、なんらかの不便を生み出すような要素はすべて問題ってことになる。この問題が大きければ大きいほど、多ければ多いほど、その街は“悪い”ってことになる。
 たとえば市民が憩う場としての公園、これが住民たちに利用されていれば問題はない。ところが、そこが犯罪の巣になったりすると、これは問題ということになる。街の提供すべきサービスがそのあるべき姿でなくなってしまったりすれば、それは大きな問題ってことになる。

 一般論で考えた場合、住んでいる人々の関わりあいを活発にし、その質を高めるような要素は街にとってはいいこと、逆に活動を妨げたり、その質を低下させるような要素は悪いこと、こういうふうに考えることができるんじゃないかと僕は思っている。

シムシティーの街
 僕の知り合いの中で、生まれた街で一生を過ごす人は―人もいない
 ここまでの僕の考え方、これがシムシティーでの街に対する基本的な考え方になっているんだけれど、中にはアメリカと日本の文化的な違いのせいで、ちょっと理解しづらいところもあるかもしれない。シムシティーをプレイする前には、これがとってもアメリカ的感覚で作られてるってことは覚えておいて欲しい。

 例えば、アメリカと日本の文化的違いが一番大きくあらわれているのは、街の人口の移り変わりって部分だろう。

 僕らアメリカ人はもし街が自分にとってそれほど住みやすくなければ(いい街でなければ、好きでなければ、自分のライフ・スタイルに合わなければ)別の街にすぐ引っ越してしまう。僕の知り合いの中で、生まれた街で一生を過ごす人は一人もいない。

 僕自身の話をするなら、生まれはアトランタ、子供時代はニューオリンズの近くのバートンルージュに住み、その後ルイジアナの学校に通い、別の学校に通いたくなったのでニューヨークに移り、今はサンフランシスコにやってきている。これでもアメリカ人の標準からすれば少ない方かもしれない。住んでいる街が自分の要求にあっていなければ、自分にあう街を探して別のところへ引っ越すのはあたりまえなんだ。アメリカの街というのはそれぞれがいろんな特色を持っている。さっきいい街の要素として、住んでいる人の活動を活発にして質を高めるってことを書いたけれど、どんなに頑張っても一つの街が誰もの要求に答えられるわけじゃない。だから自分にとっていい街を探すというのは大事な要素になってくる。

 この考え方をそのまま反映しているので、シムシティーでは毎年街の人口は大きく変化する。アメリカ人ほど頻繁に引っ越しをしない日本の皆さんには、ここは少しリアルでないように思えるかもしれないけれど、実際アメリカでは工場が閉鎖したために人口があっというまに減ってしまうなんて話はしょっちゅうあるんだ。

 もう一つ、アメリカと日本で大きな違いがあるのは、人口密度に関する考え方だろう。
 もちろん、アメリカ人でも日本人でも、大きくて豪勢な家に住みたいっていうのはおんなじだと思う。けれど、人口密度が高いところに住むことに対する考え方は、アメリカと日本では大きく違っている。

 日本は平和な国だ。だから、犯罪の発生率に関してそれほど神経を使わなくても平気で、人口密度が高い大きなマンションでも誰も不安がったりはしない。ところが、アメリカというのは危険な国で、犯罪の発生率も高い。で、この犯罪発生率というのが人口密度ととっても密接な関わりあいを持っているので、人口密度が高いということは人々を不安にしてしまう大きな要素になるんだ。
 アメリカ人はとにかく広いスペースがないと居心地が悪い。ところが日本の人は人口密度が高いところでも居心地が悪くないように生活する方法を学んでいる。これは文化的な違いによる部分が大きいと思う。



 さて、とにかくシムシティーはこういった考え方を基本にして作られている。プレイするときに一番大事なのは、このソフトの街の中に住んでいる“シム”たちをどうやって喜ばしてやるかなんだ。

 シムたちにとってその街がいい街なら、人口(シム口?)はどんどん増える。シムたちが不便だと思えば、シムは別の街に移って行ってしまう。シティー・プランナーである皆さんは、大勢のシムたちが喜ぶ街作りを目指して欲しい。
 

ウィル・ライト 著 多摩豊 訳  「ウィル・ライトが明かすシムシティーのすべて」より 

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